方孝孺

 前巻の劉因のところで見た中国論では、民族間での正統が問題となりましたが、ここでは王朝内での正統が問題となります。
 方孝孺は字を希直と云い、浙江省の出身です。幼少より聡明で読書に励み、文才に優れたことから「小韓子(韓退之)」と呼ばれました。彼は十五六歳の時、父に随伴して周公旦や孔子の古跡を見て回り、学に志すと、宋濂という儒者に師事して朱子学を修めました。その学は、絅斎が「文藝を悦ばず、恒に正道を明し異端を闢く(斥ける意)を以て己が任とす。」と記すような、厳格なものでした。後に、明の太祖洪武帝に召されて都南京に赴き、洪武二十五年には、漢中府という地方政庁に置かれた学校の教授に任命されました。その後、洪武帝が崩じ、早逝した太子標、すなわち懿文帝の子、允炆が即位して建文帝となると、孝孺は太祖の遺命により幹林博士、次いで侍講、さらには直文淵閣(宮中書庫の儒官)に任じられました。
 ときに、懿文帝の弟で太祖の第四子である棣は、燕王として北平(北京)におり、兼ねてより天下纂奪の野心を抱いていたところ、建文帝の近臣である斎泰や黃子澄等が諸王の勢力を削減しようとしていることを口実として反旗を翻し、兵を率いて南京に迫りました。その際、死を覚悟した孝孺が賦したのが『絶命の辞』であり、絅斎はこれを孝孺の遺言として表章しています。「絶命の辞」の意味について、絅斎は、「一生の息引きとるときは、誰とても死なぬものはないが、わけがあって義に死ぬるときの書き捨てのようにいうておく辞なり。」と述べています(『講説』)。以下に本文と近藤先生の正訳を掲げます。

『絶命の辞』
 天、乱離を降し、孰かその由を知らん。姦臣計を得、国を謀り猶を用ふ。忠臣憤を発し、血涙こもごも流る。死を以て君に殉ふ、そもそも又何をか求めん。ああ哀しいかな、庶はくは我を尤めざらん。
 このたびの大乱は天が降されたこと、とても人間わざではないが、どうしてこのような禍を下されたのやら、誰れもその理由を知るものはない。奸邪なる燕王のごとき人物が志を得て国家の政治を計るようになり、そのような時節故、忠臣は憤りを発して泣き、血と涙とこもごも流れることである。いまとなってしまっては、死して我が君のお供をするのみ、この外には何の求めるものがあろう。まことに哀しむべきことである。しかしこういうことであるから、不忠不義にて君に背いたという尤めは、受けぬことであろう。
 孝孺は、建文帝に一旦都落ちを勧める諸臣に対して、あくまで徹底抗戦を主張しましたが、味方の裏切りもあって、ついに南京は陥落し、帝は宮城に火を放ち、服装を変えて都を脱出しました。ときに建文四年六月のことでした。都に入城した棣は、建文帝の太子奎を廃して庶人にすると自ら帝位に就きました。これが太宗永楽帝です。棣は孝孺の声望を惜しみ、皇帝即位の詔書を彼に書かせようと面前に引き出しましたが、孝孺は喪服を着て棣の不義を難詰し、筆を投げてこの要請を拒絶しました。これに激怒した棣は、孝孺の宗族を皆殺しにすること八百四十七人に及び、両親の墓を打ち壊したうえ、母や妻の一族や朋友門人まで、悉く捕らえて殺しました。さらに城外で磔にした孝孺の口の両側を耳まで切り裂きましたが、彼は棣を罵るのを止めず、七日目にしてようやく死にました。享年四十六でした。孝孺の死後、彼の著作はほとんど焼き払われましたが、五十年の後に禁制が緩むと、同郷の学者が彼の遺文を集めて一篇とし、孝孺の書斎の名を取った『遜志斎集』として刊行され今日に伝わっております。

朱子学の「三大不幸」
 ところで、初め燕の兵が長江を越えると、建文帝に仕えていた群臣たちは、こぞって朝廷のために死ぬことを誓いましたが、いざ棣が都城に入ると、態度を一変させ、節を捨てて棣に臣従しました。黃福、鄭廣、胡廣や金幼孜等もそのうちの一人であり、彼らは棣に媚びを売って重用され、永楽十二年には棣から『五経大全』、『四書大全』、『性理大全』の三大全の編纂を命じられました。しかし、この大全編纂は、そもそもが、棣による帝位簒奪を糊塗する不純な動機に発していたため、朱子学の教義を骨抜きにし、以後それが単なる科挙の試験科目、訓詁詞章の学に堕す原因ともなりました。
 実は、徳川幕府が明から導入した朱子学は、かくして永楽帝によって換骨奪胎された『大全』中心の朱子学であり、これに対して朱子学本来の姿を回復しようとしたのが山崎闇斎なのです。強斎は次のように述べています。「さて大全を云い付けて纂めたは、先ず己が謀反したものゆえ、名を飾りはばなことをして悪を掩うつもりに聖学を明かすと云い立てて、残らず全いようにとある心で大全と云うをあらわしたぞ。是から経学がそこねたぞ。朱子の本書どもも、このときの不忠不義な学術を根から知らぬ俗学どもが寄って汚し、そこねたぞ。秦火(焚書坑儒)以来の聖学のそこねと云うはこのときぞ。さて大全は万世不忠不義の棟梁、学をそこなう第一番、孔孟程朱の罪人。日本へあのようなめっそうな、『或問』『輯略』もつかぬ『四書』が渡りたは、皆大全以後の書が渡りた故ぞ。『性理大全』、めっそうな何の役にもたたぬもの。『五経大全』は猶以てのこと。・・・其のようなわけを合点して其の非を知るは、山崎先生の御蔭とおぼえたがよい。」(『講義』)
 絅斎は『遺言』のなかで、朱子学の「三大不幸」として、一、宋の理宗の即位の事情と大儒と仰がれた真徳秀の態度、二、朱子学の大学者と称せられた許衡の出処に次いで、三に、上述した明の永楽帝の即位の経緯を挙げおります。南宋の寧宗皇帝が崩じた際、首相の史彌遠は、太子の竑を廃して、沂王の貴誠を新帝に擁立しました。これが理宗です。真徳秀は、第三代光宗のもとで大学博士を務めた碩学でしたが、史彌遠の権勢を嫌い、地方で勤務しておりました。しかし、新たに理宗が即位するとその召命に応じ、この度の皇位継承は人倫にもとるとして帝に苦言を呈しながらも、結局、官職は去りませんでした。これと対蹠的に、朱子の門人である李燔は、寧宗の時代に潭州の通判(州の政治を監督する官)をしておりましたが、竑の廃太子を聞いて官職を退き、これを惜しんだ真徳秀等の推薦を全て辞退し、ついに理宗に仕えませんでした。真徳秀は、『大学衍義』を著した大儒として仰がれておりましたが、絅斎はその出処進退が道義に反するとし、あえて李燔の進退と対照することで批判を下したのでした。二の許衡は、劉因と同時代の大儒ですが、元の召命を拒否した劉因とは対照的に、元に仕えたことから、後に闇斎は、『魯斎考(魯斎は許衡の号)』を著してその出処進退を批判しました。三は、以上で述べた通りです。
 このように、三綱五常の道義を説いた朱子学が、その後、奸臣どもによって、己の悪逆を掩う口実として利用されたことは、朱子学にとって大きな不幸でしたが、一方で、その都度、李燔や劉因、方孝孺といった義烈の士が現れ、守るべき道義が明らかにされたのはかえって慶賀すべきであると、絅斎は述べております。朱子自身も、時の権力者であった韓侂冑の忌憚に触れて偽学の烙印を押され、高弟の蔡元定は朱子の身代わりとなって流謫されています。本編を終えるにあたり、絅斎は、孝孺が記した「朱子の手帖に題す」と題する文を収めておりますが、これは、朱子が蔡元定の減刑を請うて書いた文に、孝孺が後書きしたものであり、そこには、君子と小人を一時の勝負で較べれば、小人は常に盛んで君子は常に衰えているように見えるが、長い歴史で見れば、悪は正義を覆い隠すことは出来ず、破邪顕正は必然であるということが記されています。絅斎は、偽学の禁を受けた朱子と、その朱子の学に殉じた方孝孺の受難を重ね合わせ、さらには自らの学問も、いつかは幕府の妨害を払い除けて後世に君臣の大道を明らかにすることを念じたのでしょう。

我が国における正統論の問題
 さて、これまで『靖献遺言』が記す、方孝孺の事績と遺言をみましたが、燕王棣が建文帝から帝位を簒奪した変乱を我が国の歴史に徴したときに思い浮かぶのは、やはり壬申の乱でしょう。いうまでもなく、壬申の乱は、天智天皇の死後、太子である大友皇子から、皇弟である大海皇子(後の天武天皇)が皇位を簒奪した変乱のことです。君臣の義に照らせば、簒奪者である大海皇子には正統性がなく、大友皇子こそ正統とも思われますが、我が国の史書は『日本書紀』や『神皇正統記』など、天武天皇を歴代天皇に数える一方で、大友皇子は入れておりません。これに対して徳川光圀の『大日本史』は、大友皇子を「天皇大友」として歴代天皇に数え、『大日本史』の論賛として安積澹泊が著した『大日本史贊藪』では、天皇大友について、「是を是とし、非を非とする、天下の公論なり。壬申の事に至りては、挙世能くその是非を弁ずるものなし。大友の鴻業、鬱して暢びず、隠れて彰れず。嘆ずるに勝ふべけんや。」と記し、また天武天皇については、「逆にとり順に守るとは、蓋し陸賈が権時の語にして、聖人の大経にあらざるなり。遂に姦雄をして、口を湯武に藉り、用つて其の私を済すことを得しむ。後世視て以て常となし、恬として怪しむを知らず。嗚呼、之を取ること、固より逆にすべからず。而も況や骨肉の間に於いてをや。」と記し、言を極めて天武帝の不義を責めております。しかも、それでいて天武天皇は天子のままなのです。後年、明治三年に至り、大友皇子は、政府から正式に天皇として認められ、「弘文天皇」の諡号が追贈されております。こうしたことの背景には、いかなる事情があるのでしょうか。