崎門学の開祖である山崎闇斎は、元和四(一六一九)年、京都に山崎浄因の次男として生れました。名は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門、闇斎は号で、神道号を垂加といいます。元和四年というと、大坂夏の陣によって豊臣氏が滅んでから三年目のころです。闇斎の祖父浄泉は戦国時代、豊臣秀吉の家臣で姫路城主であった木下家定に仕えましたが、後に京都に移住し、父浄因は鍼医として生計を立てました。『山崎家譜』によると、祖父浄泉は、古筆の三社託宣(伊勢神宮の天照大神、春日大社の春日大明神、石清水八幡宮の八幡大菩薩の託宣)一幅を朝夕誦唱し、子らがこれに触れると叱ったといい、母は妊娠した時に男児の出産を祈願しておりましたところ、ある時、比叡山坂本(日吉大社)にお参りし、鳥居の前で拝んでいると、一人の老翁が現れて梅花を一枝与えられる夢を見、その直後に闇斎を生んだといわれます。このように闇斎は厳格で敬神の念篤い家庭に育ちました。
思想遍歴
とはいえ幼少の闇斎は大変な腕白者で、六七歳のころ家の近くの橋に立ち、通行人の脛を竹竿で打ち払い、川に落としては喜んでいたそうです。これに困り果てた父は、闇斎を比叡山延暦寺に侍童として預けました。すると闇斎は、習った法華経を忽ちに暗記し周囲を驚かしたといいます。後、十五歳の時に、学問を本格的に続けるため京都妙心寺に入って禅僧となり、絶蔵主と称しましたが、ここでも難しい禅の語録を次々と読破して才能を現し、漢文の素養を積んでいきました。これが後に朱子学の難解な漢文を読解する上で役に立ちます。妙心寺のなかに大通院という塔頭(寺院)がありますが、これは土佐の初代藩主山内一豊が建てた寺で、山内家の菩提寺となっています。当時、そこの住職をしていた湘南という和尚は、一豊の養子で土佐にある汲江寺という寺の住職でもありましたが、かねてより闇斎の非凡な才能を認めており、彼を将来汲江寺の住職にしようと思い、土佐に連れて帰りました。かくして汲江寺に移った闇斎は、その地で土佐南学(土佐における朱子学の一派)と出会い、朱子学に関心を持ちます。そして、土佐南学中興の祖とされる谷時中に入門し、その門人である小倉三省や野中兼山等と共に朱子学の研鑽に励みました。野中兼山は土佐の名家老として藩政改革に辣腕を振るい、江戸から持ち帰った蛤を土佐湾に投げ捨て殖産を図った逸話などが有名です。この兼山等の誘いよって、闇斎は還俗して儒者に転じようとしましたが、藩主の山内忠義はこれを許さず、闇斎は土佐を追放されるかたちで京都に戻りました。しかし、その後も兼山は闇斎のために家を借り、米を送り、門生まで紹介するなど懇篤な支援を続けました。そして、正保三(一六四六)年、闇斎は父の命でついに還俗し、翌四年には『闢邪』を著して仏教と決別すると共に、朱子学の研鑽を続け、明暦元年三十八歳の時には、弟子たちに『近思録』などの講義を始めました。
万治元(一六五八)年四十一歳の闇斎は江戸に下り、とある本屋の隣に家を借りました。その時、たまたまその本屋の店主が笠間藩主(笠間藩は現在の茨城県笠間市に存在した藩)である井上正利の邸に出入りしており、正利から誰か良い儒者はいないか聞かれたので闇斎を紹介しました。そこで正利は闇斎を召しましたが、彼は、教えを乞うなら自分から来るのが礼儀だといってこれを断ったため、正利はかえって感激して闇斎に入門し、これを聞いた大洲藩主(大洲藩は現在の愛媛県大洲市の一帯に存在した藩)の加藤泰義も正利の屋敷で闇斎の講義を受けました。かくするうちに闇斎の名声は次第に高まり、寛文五(一六六五)年、四十八歳の時に、初代会津藩主の保科正之(三代将軍家光の弟で、四代将軍家綱の後見役)に賓師として招聘されました。正之の下で、闇斎は、『玉山講義附録』の編纂や有名な会津藩の『家訓十五条』の制定などに貢献しています。
重要なのは、この正之に仕えたことが、闇斎が神道に転じる契機になったとされていることです。すなわち、正之の家臣に服部安休という儒者がおり、朱子学を林羅山に、神道を吉川神道の創始者である吉川惟足に学びましたが、この安休との論争を通じて闇斎は神道に開眼したとされているのです。後、寛文九(一六六九)年、五十二歳の時に、闇斎は伊勢神宮に参拝して神官の度会(出口)延佳(『陽復記』の著者)の教えを受け、延佳の計らいで大宮司の大中臣(河辺)精長から『中臣祓』の伝を受けました。さらに寛文十一年には、正之に仕えていた吉川惟足から吉田神道の秘伝である「神籬磐境の伝」を受けると共に「垂加霊社」の神道号を与えられ、神道家としての地位を確立しました。この神道号は、神道五部書の一つ『倭姫命世記』にある「神は垂るるに祈祷を以て先と為(し)、冥は加ふるに正直を以て本と為り」の語を尊んだ闇斎が自ら惟足に請うて付与されたものとされ、闇斎の神道はその神道号に因んで「垂加神道」と呼ばれております。
もともと闇斎が敬神的な家庭に育ったことは前に述べましたが、彼は惟足や精長に会うよりもずっと前から、伊勢神道の『倭姫命世記』や『宝基本記』を初めとする五部書や北畠親房の諸著書、吉田家の古い注釈書に目を通し、伊勢や吉田の神道以外にも忌部を始めとする様々な神道説を学んでいました。神道学者の山本信哉によると、「翁(闇斎)が神道研究は決して会津公の前で服部安休と論争した寛文五年からではなくて、既に寛文元年の比、盛に諸社の神道説を尋究して居たことが知られ」、「垂加神道は、吉田、吉川、伊勢、忌部、安家、望月、及び賀茂、稲荷、御霊、向日等の諸家神道を集めて之を大成したもの」(「垂加神道の源流とその教義」、括弧内筆者)です。しかしその教義の中核をなすものは伊勢と吉田の神道であって、近藤啓吾先生は、「精長や惟足よりその伝を受けたといふことは、その正統の伝を得ることによって、我もその神道の根源に連なることができたということであって、これより我流に神道を考へるのではなく、自分も神代以来の精神的信仰的生命に連なることができたといふ大自覚を持ったといふことに外ならなかった。」と述べておられます(『崎門三先生の学問』)。
かくして仏教から儒教、儒教から神道へと転身した闇斎の外面的遍歴のみを見る者は、これを軽薄として揶揄し、荻生徂徠の門人である太宰春台などは「日本ニテモ、朱子学ヨリ仏法ニ帰スル者多シ。山崎闇斎ガ如キハ、仏法ニ帰セズシテ、神道ニ帰ス。闇斎モ仏法ニ帰スベキ者ナレドモ、本来禅僧ヨリ還テ儒ニナリタル故ニ、復(また)仏法ニ帰スルコトヲ恥テ、巫祝ノ道ニ走レリ。日本ニハ東照宮(家康)ノ法ニテ、天主教(キリスト教)ヲ禁ゼラルヽ故ニ、朱子学ノ徒モ、コレニ帰スルコトヲ得ズ。若(もし)今ニモ天主教ノ禁ヲ弛メラレバ、闇斎ガ如キ者ハ、必皆天主教ニ帰スベキナリ。」(『聖学問答』、括弧内筆者)と述べております。しかし、その思想的内実について、近藤先生は「先生の生涯は一の孝子であり、その孝の思ひの故に仏教の出家入道に疑問を抱き、その故に朱子の五常、中でも父子の親を重しとする教えに接して仏徒たるの非を悟り、そして朱子の教えに沈潜してその学の骨髄に触れるや、朱子は畢竟漢土の哲人、我は日本に生を稟けた人たることを知りて我国古来の思想を求め、遂に神道に入ったことであって、先生その人に於いては、仏儒神と遍歴したるは、その自身の真実を求めての必然」であると述べられています(上掲同著)。
このように、闇斎は、孝を重んじるが故に仏教から儒教に転じ、普遍的人倫を説く儒教も所詮はシナの学問であることから、我が国固有の道である神道に開眼し、安直な儒教かぶれを排し、儒教を羽翼としながらも、その目的は、我が国固有の道であり我が国体の本義の解明に向けられたのでした。特に、当時の我が国では、朱子学を信奉する余りに、孔孟を生んだシナを以て中華すなわち尊貴となし、我が国を夷狄すなわち野蛮となす中華思想、慕夏主義が蔓延し、荻生徂徠などは自ら東夷物茂卿と署し、林羅山などは『本朝通鑑』のなかで我が国の天皇を呉の泰伯の末裔と記すなど自虐の弊害が甚だしくありました。しかし我が国は神代以来皇統連綿と継受し、建国来一度の革命をも経ていないという意味では、孔孟を生んだシナ以上に君臣内外の義を体現しております。そこで闇斎は、我が国体の真価を湯武放伐の絶対的否定(君臣の義)に見出し、これを以て我が国と外国を分かつ所以(内外の別)と為したのでした。闇斎が弟子たちに向かい、「もし彼の国が孔子を大将とし、孟子を副将とし、数万騎を率いて我が国を攻めてきたならば、我が国で孔孟の道を学ぶ者はどうすればよいか」と問いかけ、誰も答えることができなかったのを見て、「不幸にしてもしこの厄に遭ったならば、身に盾を被り、手に鋒を執り、これと一戦して孔孟を生け捕りにして国恩に報じる、それが孔孟の道である」と喝破したという逸話は、そうした闇斎の気概を良く表しております。
延宝元(一六七三)年一月二十六日、保科正之が薨去しました。闇斎は、京都を出て会津で正之の葬儀に加わり、土津霊神碑文を草して京都に戻ったのちは、六十五歳で亡くなるまでの十年間、再び京都を出ることなく、子弟の育成や著述に専念し、門弟は六千人に及んだといわれます。その師風は峻厳、師弟の関係は君臣の如くであり、教えを受ける者は、貴族といえども容赦なく、その書を講じる音頭は鐘の鳴る如く、面容は怒る如く、聴講する者は恐ろしくて闇斎を仰ぎ見ることができなかったといいます。また、ある門人は、「自分はまだ妻がいないので、時として情欲を抑えられないことがあるが、そんなときは目をつむって先生を想像すれば、情欲は一瞬で消え去り、寒くもないのに身震いがするのだ」と言ったとのことです。(『先哲叢談』)
かくして闇斎の学問は多くの門弟に受け継がれましたが、なかでも朱子学の教えは高弟の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎に受け継がれ、神道の教えは、正親町公道や出雲路信直、植田艮背によって受け継がれました。一般に闇斎学の朱子学的教義を崎門学と称し、神道的教義を垂加神道と称します。また、上述した浅見、佐藤、三宅の三氏は、世に「崎門の三傑」と称されますが、佐藤直方は、闇斎が絶対に否定した湯武放伐を容認し、三宅尚斎もこれに追従したので、同じ闇斎門下でも邪道に陥っており、崎門学の正統は主として浅見絅斎によって受け継がれました(直方は、『湯武論』において「孔子の武王をなぜ「未だ善を尽くさず」と仰せられたぞと云えば、そこそこに訳のあることぞ。湯武は雨ふりに花見に行かれたと云うものぞ。武王がそでないことをせられたならば、あたまで不善と云うものぞ。・・・ちょうど湯武は雨降りに合羽傘で花見に行かれたぞ。なんぼいやでも、雨降るときは雨装束せねばならぬ。雨天の花見ゆえ未だ善を尽くさずと仰せられたぞ。」と述べ、放伐を非常の措置として肯定しています。)